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アムリタ

 主に演劇をするひとたちのこと

『虚構の恋愛論(2018)』観察記録(8):出演者のみなさんについて…その2

『虚構の恋愛論(2018)』観察係の山岸です。
前回に引き続き、出演者のみなさんについて好みと偏見を交えて書いていきます。
今回は、アムリタに所属している4名の方々。
実はアムリタの役者が全員揃う作品はとても貴重で、
旗揚げ時からともに所属している藤原さんと河合さんの二人でさえ、
第1回公演『虚構の恋愛論』、朗読企画『解体されゆくアントニン・レーモンド建築 旧体育館の話』、
第9回公演『みち・ひき』の3本しか、アムリタでの共演作品はありません。
そんなわけで、今回の出演者クレジットを初めて眺めたときには、
旗揚げからこの団体の作品を観てきた身として、とてもうれしくなったのでした。
なお、この記事では、登場する人物すべてに敬称を付しているため、
これまでの表記とは一貫していない箇所があります。

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・大矢文さん

2018年1月にアムリタ加入。
とはいえ、もとを辿れば荻原さんからみて学生時代の先輩にあたる間柄であり、
共演・参加した作品は数知れず。
わたしが初めて舞台上の大矢さんを見たのは、2013年に早稲田大学で上演された、
アムリタ2『n+1、線分AB上を移動する点pとその夢について』ではないかと思います。
奈良県宇陀に滞在しながら上演された『から、へ、流れる』、
東京の早稲田小劇場に加えて岐阜県美濃加茂市でも上演されたアムリタ9『みち・ひき』、
そして利賀演劇人コンクール2014で上演された『楽屋-流れ去るものはやがてなつかしき-』と、
ときに過酷な状況にも直面する荻原作品の旅公演では欠かせない役者さんといっても過言ではなく、
アムリタが重視する「どこでも演劇をする」という性質にぴったりな存在でもあります。
(『楽屋-流れ去るものはやがてなつかしき-』はアムリタ名義ではなく荻原永璃名義)

旅公演でなくとも、荻原作品の稽古や上演はときに過酷な場となることもありますが、
どのような状況においても実に「安定」して見える、というのが大矢さんの魅力です。
もちろん、どんな時でも愉快なことをおっしゃってくれるという、性格的な意味でもそうですが、
肉体や声を含む身体性という意味でも、彼女が大きく崩れた場面をわたしは観たことがありません。
感情の動きが声や身体に如何なく直結することが魅力になる役者さんが多く出演する荻原作品にあって、
その揺れ動きを大切にしつつも、台詞をしっかりと届けるための技術に常に裏打ちされているところが、
その「安定」の根底にあるものなのではないかな、と思っています。
先に書いたように、とても愉快な一面もある大矢さん。
「夏休みの自由研究」というモチーフを含むこの作品では、そうした面が垣間見えるはずです。


・鈴木太一朗さん

2018年1月、大矢さんと同時にアムリタ加入。
大矢さんとは逆に、学生時代の荻原さんの後輩にあたる間柄であり、
すでに別の記事で触れた『第七官界彷徨』から、今年4月の『WS 像をなでる⇔魔王を倒す』まで、
やはり多数の荻原作品に出演・参加しています。
今でこそアムリタに所属する俳優となっている彼ですが、
それまでは男性の役者さんでは数少ない、荻原作品の「常連」でした。
出演者が全員女性であることも多いアムリタの作品において、
彼の存在自体が「強み」となった作品も数多くあります。

そこに立ってことばを発するに至るまでの積み重ねを一つ一つ怠らない、丁寧で誠実な面と、
そうした積み重ねをぶち壊しかねないような、危ういまでの繊細さという二面性、
彼の役者としての魅力は、そういったところにあるように思います。
前回の『WS 象をなでる⇔魔王を倒す』では、後者の気迫こそが作品をより切実なものにしたのでした。
静かそうな佇まいとは裏腹に、パフォーマンスの引き出しが多く、観ていて楽しい役者さんでもありますが、
今回はどのような面が押し出されてくるのか、それが「恋の自由研究」としてどのように生きるのか、
個人的に楽しみにしています。


・河合恵理子さん

旗揚げ公演のアムリタ1『虚構の恋愛論』からアムリタ加入。
荻原作品への初出演は、2010年に早稲田大学で上演された『はははなし』。
アムリタ2『『n+1、線分AB上を移動する点pとその夢について』への出演以降、
多忙な日常のためにアムリタの作品に出演できない期間が長くあったりもしましたが、
公演の当日運営にはほぼ毎回参加していたほか、他の団体の公演に振付を提供するなど、
演劇から完全に遠ざかったわけでなく、出演機会をうかがっていたのでした。
昨年上演されたアムリタ9『みち・ひき』で、久々にアムリタ作品に出演したあと、
満を持して今回の『虚構の恋愛論(2018)』への参加となりました。

河合さんの出身サークルである早稲田大学演劇倶楽部といえば、
ポツドール主宰の三浦大輔さんや俳優の八嶋智人さんといったユニークな舞台人の出身母体。
河合さんもまた、小柄な身体をいっぱいに使った芝居が持ち味ですが、
役者さんとしての彼女の素敵なところは、目の前にあるものに対してどこまでも素直に向き合うことです。
おそらくわたしであれば、ごまかしたり目を背けたりしてしまうような自他の性質について、
実にまっすぐに考え抜いて、表現しようとしているように思います。
「誠実」という語、あるいは「祈り」という語をキーワードとすることが多い荻原さんの演劇に、
神がかり的にマッチしている役者さんなのではないでしょうか。
旗揚げ時の『虚構の恋愛論』では、個性的な役者の中にあって安定感をとりもつ役割を果たしましたが、
『虚構の恋愛論(2018)』では、6年分の時間が演技にどのように作用するのか、気になっています。


・藤原未歩さん

旗揚げ公演のアムリタ1『虚構の恋愛論』からアムリタ加入。
荻原さんとは高校演劇部の先輩・後輩であり、共演・参加作品は数知れず。
わたしが大学時代に所属していた演劇サークルの同期でもあり、
彼女がわたしにアムリタとの縁を作ってくれたといってよいかと思います。
先ほど河合さんについて「そこにあるものに忠実」である役者さんだと書きましたが、
藤原さんは「そこにないものをあることにしてしまえる」ような役者さんです。
そんな対照的な二人は、「アムリタの理性」と「アムリタの野性」と呼ばれているとかいないとか。

わたしが知る限り、どのような作品においてもそうなのですが、
稽古や議論を通じてその作品を理解し納得する前と後では、彼女の芝居は全く違うものになります。
もちろん器用なひとなので、どのような時にもそつなくパフォーマンスをこなす力もあるのですが、
彼女が名実ともに作品の一部になった瞬間
ともに過ごす時間の長さなのか、考え方や演劇への向き合い方が合うのか、
荻原作品の作品づくりにおいては、そうした傾向がとても顕著に出るように思います。
そういう意味で、「アムリタの藤原未歩」は、ほかの芝居では観られない力を発揮することがあります。
アムリタが全員揃うこの作品で、彼女がどのように暴れることになるのか、楽しみにしています。


以上、二回に分けて、『虚構の恋愛論(2018)』の出演者についてわたしが書けることを書いてみました。
観劇の参考になるかどうかはわかりませんが、少しでも親しみを持っていただけたらと思います。
本番が近づいておりますが、当日券も前売り券と同額で購入していただけるので、
三連休お時間がありましたら、ぜひ北千住まで足をお運びください。

それでは。
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『虚構の恋愛論(2018)』観察記録(7):出演者について…その1

『虚構の恋愛論(2018)』観察係の山岸です。
本日から、出演者とスタッフは会場のBUoYでの準備と稽古に入っています。
BUoYは、2階が元ボウリング場を改装したカフェ(12時~17時、月火定休)とギャラリー、
地下1階が元銭湯を改装した劇場スペースという異色のアートセンターであり、
わたし個人としても、とても気に入っている空間です。
北千住は奥州街道最初の宿場町である千住宿として栄えた歴史ある街ですが、
現在では古今東西の多様な文化が入り混じる、奥深く面白い雰囲気になっています。
味のあるお店もたくさんありますので、観劇前後に散策されてみてはいかがでしょうか。
北千住駅からBUoYへの道のりも、下町の趣が濃い一角を抜けていくのですが、
その分やや迷いやすくなっている個所もあります。
初めてお越しになる方は、ぜひお時間に余裕を持っていらしてくださいませ。
BUoYの詳細、今後の企画・上演作品等については、下記のHPをご覧ください。

http://buoy.or.jp/

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今回と次回の記事では、『虚構の恋愛論(2018)』に出演する方々を紹介したいと思います。
それぞれ強い個性を備えた、人を惹きつける力をふんだんに持ち合わせる役者さんです。
今回はアムリタに所属していない、いわゆる「客演」の役者さんについて書いていきます。
とはいえ、お二人ともアムリタへの出演経験を有する方ですので、
稽古場でも舞台上でも、「客演」と「所属」の垣根はほとんどないというのが実状です。
できるだけ客観的に書きたいとは思いつつ、好みと偏見が混じることになることでしょう。
あしからず。


・日和下駄さん

アムリタ作品への初参加は、2015年3月に荻窪小劇場で上演された『忘れて滅ぼす』。
演劇の経験がほとんどない中での出演だったそうです。
その後、別役実「正午の伝説」フェスティバル(2017年4月)や、
岸井戯曲を上演する#11参加の「END OF DEMOCRACY」(2017年7月)に参加するほか、
フリーの俳優として、mimimalやsons wo: の作品などに出演しています。

普段の彼は、どこか「ひょうひょうとした」という曖昧な形容詞が似合うたたずまいですが、
自身の感情が場の空気と噛み合ったときの、得体のしれないところからくる「圧」が魅力です。
どこかつかめないのになぜか目が離せない…という、不思議な力が備わっています。
アムリタに出演する方々は、芯の通った役者が選ばれることが多いだけに、
彼のやや異色な存在が、作中の関係性をより多様で複雑にするということもあるかもしれません。
不器用にも見えるところがしっかり武器になる、そしてそのことをきちんと意識している、
稀有な才能を秘めた役者さんです。
個人的には、哲学ボーイの彼から西洋哲学について教えてもらうことがひそかな楽しみでもあります。


・野村由貴さん

関西を中心に活動されてきた役者さんです。
アムリタ初出演は、2015年10月に奈良県宇陀で上演された『から、へ、流れる』。
翌年春の東京での『わたしたちの算数 あるいは 握手を待つカワウソ、とても遠い犬』を経て、
今回が荻原作品への3回目の参加となります。
この『わたしたちの算数~』で、わたしは初めて野村さんのパフォーマンスを拝見したのですが、
まっすぐでしなやかなすがたとことばの感覚を、いまでもよく覚えています。
実は今回の稽古で、わたしもエチュード(役者が即興でシーンを作ること)に参加して、
そのときにペアでご一緒させていただいたことがあったのですが、
観劇時の印象そのままに、わたしがオーダーした適当な難題にも器用に応じてくださり、
終始リラックスして楽しくやれたことが印象に残っています。

今回の『虚構の恋愛論(2018)』は、野村さんのまっすぐさ、しなやかさが存分に生きる作品です。
客席のどこからご覧になっても、彼女のパフォーマンスとことばは強く響いてくることでしょう。
おかしさとせつなさを同時に伝えることのできる、チャーミングでとてもすてきな役者さんです。
一人でも多くの関東の方に、野村さんの芝居を見ていただきたいと思っています。


その2へ続きます。

『虚構の恋愛論(2018)』観察記録(6):『虚構の恋愛論』について

『虚構の恋愛論(2018)』観察係の山岸です。
現在Youtubeにて、アムリタ1『虚構の恋愛論』が期間限定で公開されています。
アムリタ旗揚げメンバーである河合恵理子、藤原未歩や、
のちにアムリタに加入することになる鈴木太一朗をはじめ、
(劇)ヤリナゲの主宰で荻原・藤原とは高校時代から親交がある越寛生さん、
荻原の後輩にあたり、東京、台北、京都で上演されるH-TOA『ガリレイの生涯』に出演中の金城ゆうまさんと、
とにかく出演者が「濃い」!というのが、わたしが見返して最初に思ったことでした。

この作品は短編オムニバス公演に出展されたもので、戯曲や演出の構成もそれを意識しており、
作品のつくり方や題材に対する団体としてのスタンスも現在とは違っている点があるため、
今回の作品とは別物としてご覧いただくとよいかなと思います。
つまり、『虚構の恋愛論(2018)』は『虚構の恋愛論』の単なるリメイクではありません。
とはいえ、『虚構の恋愛論』というタイトルを引き継いでいるだけあって、
「恋愛」なるものと「虚構」なるもののつなげ方については、
今作と通じるところが大きいような気もしています。
公開は上演最終日の9月17日までを予定していますので、
ご来場前に一度、目を通されてみてはいかがでしょうか。
(以下のリンク先からご覧になれます)

https://www.youtube.com/watch?v=4PVRdB1f2LA

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これまでにも何度か書きましたが、その『虚構の恋愛論』においても、
わたしは今回の『虚構の恋愛論(2018)』と同じく、観察係をしていました。
当時のわたしは、わたしの同期であったもう一人の観察係とともに、
このブログやTwitterで稽古の様子を実況したり、インタビューをとったりしました。
Twitterでの呟きは、主宰、役者、スタッフ、お客様の呟きとともに、
以下のサイトでまとめて読むことができます。

https://togetter.com/li/354637

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読み返して改めて思ったのは、荻原が演劇に求めているものが、
当時もいまも一貫しているな、というところです。
以下、わたしと荻原の呟きを引用します。


Hiroki Yamagishi @justkiddddding 2012-08-21 01:42:19
終演後、ダメ出し会兼中日打ちにお邪魔したが、面々を眺めていて、ふと「人前で『自分』の感情を揺らして見せるなんて、この人たちは何考えてんだ」と思った。「もう一人の自分になりたい」という理由で芝居をやる人がいる(らしい)けれど、この役者達のやっている事は、その真逆なのだ。

Eiri Ogihara (アムリタ) @35_coral_ 2012-08-21 01:45:42
感情は勝手にゆれるのよ。人前に立つのは、作用したいから。関わりたいから。祈りだから。わたしがわたし以外にはたらきかけること


「感情は勝手にゆれる」「祈り」「わたしがわたし以外にはたらきかけること」
アムリタの作品がつねに目指しているのは、こうしたことなのだと思います。
いうなれば、『虚構の恋愛論』は、「恋愛」そのものを描こうとした作品というより、
「恋愛」というひとつの形式を借りて、「祈り」を現前させようとした作品なのです。
それを裏付けるかのように、荻原はこんな呟きを残しています。


Eiri Ogihara (アムリタ) @35_coral_ 2012-08-02 00:37:57
目的と手段をとりちがえない。恋も作品も手段であって、目的じゃないってこと


「祈り」はアムリタの作品において、つねにその中核に位置づけられています。
要するに、アムリタの演劇は「わたしがわたし以外にはたらきかける」プロジェクトなのです。
「恋愛」なるものは、そうした「祈り」の形式として適切なものなのかどうか、
「虚構」であるということは、その「祈り」をどのようなものにするのか、
そういったことについても、『虚構の恋愛論(2018)』は問うていくのではないかと思います。


ややまとまりに欠けますが、今回はこのへんで。

『虚構の恋愛論(2018)』観察記録(5):恋について

『虚構の恋愛論(2018)』観察係の山岸です。
関東地方を掠めた二度の台風の影響で、稽古がなくなってしまったりもしましたが、
作品づくりは少しずつ着実に進んできています。
本番まで1ヶ月を切りましたが、皆さまご予約はお済みでしょうか。
アムリタの公演の特色といえば、作品のコンセプトに合った客席の組み方を行うこと。
円形や向かい合わせといった、よくある劇場の客席とは異なる配置になる作品が多いです。
しかしその分、用意することができる客席数が限られてしまうのが泣き所。
今回わたしはまだ舞台プランを聞いていませんが、
場合によっては今回も上演間際のご予約となると承れない可能性もあるため、
ご予定が決まったらお早めにご予約いただけると幸いです。

前々回は「愛」、前回は「恋愛」について、わたしなりの切り口から書かせていただきました。
今回は「恋」について、少しばかり書いてみます。
これまでとはやや趣向を変えて、わたしの切り口を提示してみるのではなく、
アムリタ主宰の荻原永璃が過去に恋を扱った作品を取り上げ、それに触れてみたいと思います。

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わたしが観た荻原作品のなかで、最初に「恋」がクローズアップされたと感じた作品は、
2011年に早稲田大学構内で上演された『演習3 第七官界彷徨』です。
「演習」とは、吉田恭大(歌人)が脚本ないしドラマトゥルク、荻原が演出を担う作品における、
作品の体裁を示す冠のようなものであると思っていただければよいかと思います。
この作品は、20世紀前半に活動した小説家の尾崎翠による同名作を原作として、
吉田氏が上演用の脚本を手がけ、荻原が演出を担当した作品です。
今回の『虚構の恋愛論(2018)』に参加する藤原未歩と鈴木太一朗も、
アムリタ成立前ながら、この『第七官界彷徨』に出演していました。
当時の稽古場ブログ(http://dainana201106.blog.fc2.com/)を覗いてみると、
役者陣が「恋」なるものと思い思いに格闘していた様がよくうかがえます。

ただ、そこで焦点が当てられたのが、いわゆる心象風景としての恋であったのに対して、
この4か月後に上演された『WS 恋について』と、翌年に上演された『虚構の恋愛論』は、
恋なるものの「形式」をわざわざなぞってから、あれこれ実験していくといったふうに、
対象に向き合う姿勢が、より分析的なものになったということができそうです。
言い換えれば、「恋」を自明なものや自然なものとしてとらえるのではなく、
むしろその中の「よくわからないところ」を追求しようとしているように見えます。
荻原作品が役者陣の「ぎりぎり」の攻防の上に成立していることは今も昔も変わらないのですが、
『第七官界彷徨』が、恋なるものに揺れさぶられる人間そのものを描こうとしているのに対して、
『虚構の恋愛論』は、「恋」自体をひっつかみ、揺さぶってやろうとする試みともいえるでしょうか。

余談ですが、わたしの解釈では、2012年2月に荻原の作・演出によって早稲田大学で上演された、
劇団森『かわいいので無敵』のラストシーンこそが、
上記のような移行を象徴する、明確な境界だったのではないかと思っています。
(『かわいいので無敵』もアムリタ成立前の作品ですが、藤原と河合恵理子が出演していました)

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最近、荻原永璃は自身のTwitterでこのように呟いていました。

「恋に恋しているのだと思っている。
私にとってそれは、人間に希望を持ち続けようと努力することと同義だ。
あるいは自分が変わり続けられると信じること」
(2018/8/9 2:20)

『第七官界彷徨』から『WS 恋について』『虚構の恋愛論』と、荻原がこだわってきた「恋」は、
いまや単に「男と女が出会って落ちるもの」という概念にとどまらない、
他者と「内なる他者」たる自己への、誠実な向き合い方の探求としてとらえられています。
そして、『虚構の恋愛論(2018)』は、こうした探求を一歩進めるものとして、
位置づけることができるのではないかと思います。
一般に「甘い」と思われている「恋」なるものの、ある意味で途方もなく過酷な一面が、
今回の作品ではあぶりだされることになるでしょう。
(『WS 恋について』『虚構の恋愛論』については、別の記事で触れたいと思います)

今回はこのへんで。

『虚構の恋愛論(2018)』観察記録(4):恋愛について

『虚構の恋愛論(2018)』観察係の山岸です。
7月は週に2回の頻度だった稽古ですが、8月に入ってからは週3回のペースとなり、
全体の枠組みとしても出演者の姿勢としても、いよいよ作品としての完成予想図が、
ぼんやりと見えつつあるように思います。
わたしは引き続き、なかなか都内の稽古場に足を運ぶことができていないのですが、
稽古後に出演者たちが書き留めて共有してくれる稽古レポートを読んで、
あれこれ想像したり考えたりする日々を送っています。

前回は「愛」について、少しばかり書かせていただいたのでした。
今回は「恋愛」について、少しばかり書いてみたいと思います。

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すでにアムリタの公式Twitterアカウントで、出演者たちがつぶやいていますが、
今回の稽古では「理想の恋愛シチュエーション」や「恋愛ドラマの1シーン」といった、
いわゆる恋愛の「型」について、実演してみたり、感想や意見を交換してみたり…
というようなことを繰り返し行っています。
私が観察にお邪魔したある日の稽古後、関係者数人でお酒を飲みに行った席で、
いかにわたしたちがこの「型」にとらわれているかについて、話が盛り上がったのでした。
今回の作品は、「型」を肯定するものでも否定するものでもありませんが、
こうした「型」がどのようにできていて、それがわたしたちにどのように作用しているのか…
といったことを身体を張って考える作品に、少なくとも部分的にはなるのではないかと思います。

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いまわたしは、『ポリアモリー――複数の愛を生きる』という本を手元に置いています。
「同時に複数のパートナーと『誠実』に愛の関係を築くという道」という定義を、
著者の深海菊絵さんはポリアモリーに対して与えています。
「誠実」であるというのは、その「愛」の当事者全員に対して関係をオープンにするという意味で、
親密な関係を持つ他者に対して誠実であるという意味でもありますが、
同時に自分の気持ちにうそをついて無理やり一人を選択することをやめるという意味で、
自己に対して誠実であるという意味でもあります。
つまり、複数の人を同時に好きになってしまうという心の機制について、
自分のそれも相手のそれも否定せず受け入れる、という考え方なのです(13-14頁)。

この『ポリアモリー――複数の愛を生きる』という本でわたしが注目しているのは、
「嫉妬」「怒り」「束縛」といった、恋愛のネガティブな面に一章を割いている点です(第6章)。
自己と他者を否定せず、誠実であろうとするのがポリアモリーの考え方だと書きましたが
著者によれば、ポリアモリストの80%は、何らかの嫉妬心を抱いた経験を持っています(141頁)。
多くのポリアモリストは、嫉妬を抑圧するのでも、あるいは振りかざすのでもなく、
そうした気持ちを噛み含み向き合いながら、うまく付き合っていくべきものと考えているそうです。
また、嫉妬との付き合い方は頭で理解するのでなく、実践と共有を重ねて形成するとのことです。
ポリアモリストは、最初から「聖人」のように生まれてきたわけではなく、
自分の黒い感情と向き合い試行錯誤を重ね、少しずつ誠実な恋愛のあり方を探っています。

『虚構の恋愛論(2018)』では、恋愛にまつわる感情や実践の「型」をひとつひとつ拾い上げて、
演出家や出演者自身の経験とも結びつけ、その「実践」に向けて悪戦苦闘しているわけですが、
日常的に、そうした悪戦苦闘の積み重ねによって自己や他者に向き合いつつ生きている方も、
実は大勢いらっしゃるのではないかと思います。
そうした人びとは、もちろん演劇として上演されるような形ではないにせよ、
アムリタよりも早く「虚構の恋愛論」というプロジェクトに着手していた人びとなのかもしれません。
そして「虚構」でもって、現実に根を張る恋愛の「型」を問いかえそうとしていたのかもしれません。

今回はこのへんで。


参照文献
深海菊絵(2015)『ポリアモリー――複数の愛を生きる』, 平凡社新書。

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